令和6年度(2024年)7月26日(金)・27日(土)・28日(日)の三日間、中津祇園が開催されます。
実はあまり中津祇園のことをよく知らない。そんな方もお祭り騒ぎで楽しめるお祭りではありますが、小ネタを知っているといつもと見方が違ってもっと楽しめるかも!ということで、中津祇園を深く知るための記事を大公開♪
中津市民も、市外の方もみーんな余すことなく楽しんでほしい!ぜひ最後までじっくりご覧ください。
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半世紀ぶりに商店街内を下祗園の祗園車と御神輿が巡行!観覧席があり、特別グルメの販売やセールも開催中♪
▼下祇園の祇園車・御神輿、由来について
▼上祇園の祇園車・御神輿、由来について
中津祇園イベント詳細
7月26日(金)「引き出し」
午前~ 各祇園車が自町内を回り、随所で舞踊等の芸能を披露します。
夕方~ 順次、上祇園の祇園車が中津神社へ引き出されます。
20時ごろ 「中津祇園市民花火大会」主催 中津祇園市民花火大会実行委員会
20時30分ごろ 「お宮入り」 下祇園の祇園車が威勢よく闇無濱神社に入り、もちまきや一斉踊り等の催しが行われます。
7月27日(土)「朝車」
5時~ 御神幸(下祇園)・御巡行(上祇園)
御神体を御神輿と祇園車に移し、氏子全域を回りながら、辻々に建てられた高〆の下に停車し、疫病退散祈願の芸能を奉納します。
17時~ 福澤通り歩行者天国「お祭り広場」
下祇園・上祇園すべての祇園車と御神輿が福澤通りに並びます。
19時~ 「祇園車共演」開会式
19時30分~ 「祇園車共演」
下祇園と上祇園の祇園車13台と御神輿2基が一堂に会し、順次1台ずつ中央やぐら前で芸能を披露します。
21時30分ごろ~ 御旅所「練り込み」
下祇園では、祇園車と御神輿が御旅所(闇無濱神社境内)で直線的に往復する「棒練り」が行われます。
上祇園では、祇園車と御神輿が御旅所(中津神社境内)で円を描きながら動く「廻し練り」が行われます。
7月28日(日)「戻車」
8時~ 御神幸(下祇園)・御巡行(上祇園)
御旅所を出発した後、氏子全域を回りながら、辻々に建てられた高〆の下に停車し、疫病退散祈願の芸能を奉納します。
17時~ 福澤通り歩行者天国「お祭り広場」
下祇園・上祇園すべての祇園車と御神輿が福澤通りに並びます。
20時ごろ~ 「練り込み」
下祇園では、祇園車から八坂神社の御神殿に御神体を御還しした後、祇園車と御神輿が御旅所(闇無濱神社境内)で直線的に往復する「棒練り」が行われます。上祇園では、祇園車が中津神社境内で円を描きながら動く「廻し練り」が行われます。
祇園車・御神輿の位置がリアルタイムでわかる!
「祇園車や御神輿が今どこを巡行しているのか知りたい」という多くのご要望にお応えしまして、中津祇園保存協議会は、株式会社テクノアイ(大阪府堺市)の提供する「祭礼総合情報アプリ 地車&太鼓」を導入いたしました。
このアプリでは、祇園車と御神輿の現在地を確認することができます。
無料でご利用いただけますので、中津祇園にお越しの際はぜひご利用ください。
中津祇園の目的
中津祇園は、10万石の城下町中津を代表する祭で、疫病退散と無病息災の祈願を目的に、毎年7月下旬に行われます。全国の祇園祭と同様、中津祇園も京都の祇園祭の流れを汲み、約600年の歴史があります。
華麗な13台の「祇園車」(ぎおんぐるま)と呼ばれる曳車(ひきぐるま)と2基の御神輿が中津の城下町を巡行し、高〆が張られた辻々では、祇園車の舞台で舞踊等が奉納されます。
2つのお祭りを一つにして「中津祇園」と呼ぶ!
同じ日に開催される2つの祇園祭を合わせて中津祇園と呼んでいます。
ひとつは闇無濱神社(くらなしはまじんじゃ)を中心とした「下祇園」です。今から約600年前の1430年に、現在の闇無濱神社を復活させ、下正路浦の漁師たちが祇園さまの御分霊を京都の八坂神社から改めて勧請(かんじょう)し、村祭としてささやかな祭が行われたことが、中津祇園(下祇園)の記録として残っている最も古い記述です。
もうひとつは中津神社を中心とした「上祇園」です。1762年に大江八幡宮の初卯神事(はつうしんじ)が再興され、この時、京町が祇園囃子を寄進したのが、上祇園の始まりとされています。
派手好きな殿様が「祇園車」を導入
中津祇園が始まったころは、御神輿が行き来するだけのささやかな祭だったとされています。中津城下に町が形成されていくと同時に、だんだんと紙や竹の造り物の山車が出されるようになりました。
そんな中、約340年前の1683年、当時の城下町の代表であった豊後町が、時の中津藩主である小笠原長胤(おがさわら ながたね)に対して、「私たちも立派な曳車を曳きたい」そのような申し出をしました。
とても派手好きな長胤公、年齢は今で言うと高校生ぐらいの年齢だったそうですが、早速のこのことを採用し、関西方面から曳車を取り入れます。それが現在の「祇園車」につながっているとされています。
近年の研究で、当時江戸時代の大坂に多数存在していたといわれる「芸能目的のだんじり」の文化が、関西圏域から瀬戸内海を通じて伝わったのではないかという説が有力となっています。
祇園車には3つの特徴があるぞ!
その1 折屋根
1つ目は、「折屋根」(おりやね)と呼ばれる屋根の形状です。神社の社殿などでみられる「唐破風」(からはふ)のように、正面から見た時に、丸みをおびた屋根の両端は水平になっています。しかし、祇園車を正面から見ると、屋根の両端は上向きに折り曲がった姿になっています。
これは、路地の狭い中津の町に、できるだけ大きな祇園車を御神幸させるために考え出された中津祇園独特の形だとされていて、この仕組みを「折屋根」と呼んでいます。
このような折り屋根の構造をもった山車は、中津の周辺ですと、福岡県豊前市の八屋祇園、同じ豊前市の宇島祇園、同じく豊前市の松江祇園(しょうえぎおん)、大分県宇佐市の長洲葵祭、(ながすあおいまつり)、同じく宇佐市の桜岡神社天神祭(さくらがおかじんじゃ てんじんまつり)、南の方にいきますと、大分県玖珠町の森祇園、塚脇祇園(つかわきぎおん)、北山田祇園、九重町の野上祇園(のがみぎおん)などで、今も見ることができます。
その2 可倒式
2つ目は、祇園車の高さを短時間で極端に低くできる事です。これは殿様にお披露目をする際、祇園車を解体することなく城門を潜り抜けるための仕掛けで、この仕掛けを「可倒式」(かとうしき)と呼んでいます。城門を潜るために、その都度、祇園車を解体して、また組み立てていては、時間がかかってしまいます。
そこで、柱にささっている木栓を抜くだけで、屋根ごと後ろ向きに長い柱が倒れる仕掛けが考え出されました。
現在では、城門を潜る事が無くなったため、巡行中に見る事ができなくなりましたが、今でも「車建て」の際にはこの仕掛けを使って、組み立てている町内もあります。
その3 頑丈な足回り
2トンから3トンもあると言われる祇園車を引き回すには、頑丈な足回りが必要です。
「グル」とも呼ばれている車輪は、樹齢数百年の松でできおり、京都の山鉾や飛騨高山の屋台の車輪と比べると、かなり太くて丈夫なものが使用されています。最近では、松が手に入りにくくなったことから、集成材とよばれる加工品を使う町もあります。
外から車輪(グル)を挟み込んでいる大きな一枚物の部材が「台輪」(だいわ)と呼ばれる部位で、京都の祇園祭の山鉾とは違い、内部に車輪(グル)を取り付けるスタイルとなっています。
これは、城内引き入れで段差のある路面を進むために、車軸(芯棒)を折れにくくし、強度を確保するためと言われています。
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下祇園 下正路町舟車の「車建て」 -
上祇園 新博多町踊車の「車建て」
祇園囃子にも特徴が!「鉦祇園(かねぎおん)」
チキチン チキチン チキチン コンコン のリズムは「じゃんぎり」とよんでいます。実は、このリズムは現在でも大坂の祭で耳にすることが多いです。
このことから、中津祇園の囃子も、祇園車と同様、関西方面から伝わったものと考えられています。
鉦を打つ時は、撞木(しゅもく)と呼ばれるハンマーの様な形をした木製の棒で打ちます。中津の祇園囃子は、鉦の打ち方に特徴があり、祇園車の動く速さに応じて鉦を打つ調子(テンポ)を速くしたり、遅くしたり、鉦を打つ力に強弱をつけて音階・音程をつくりだします。このような特徴から、小倉祇園が「太鼓祇園」と称されるのに対し、中津祇園は『鉦祇園』(かねぎおん)ともよばれています。
また、この囃子は中津祇園だけでなく、中津から各地へと伝わっています。南は玖珠町、西は福岡県豊前市の宇島祇園・八屋祇園、さらには福岡県田川市の川渡り神幸祭に伝わっており、その「川渡り神幸祭」では今でもなお、いくつかの幟山笠で「チキチンコンコン」の囃子を奏で、地元では「豊前囃子」(ぶぜんばやし)とよばれています。
中津祇園の日程
祭礼は前夜祭を含め4日間行う町が多いですが、3日目「朝車」(あさぐるま)、4日目「戻車」(もどりぐるま)がいわゆる祭礼の本番です。すなわち、御神体が御神輿、下祇園は祇園車にも移され、中津城下の疫病退散を目的に御神幸(ごしんこう)が行われます。
その途中で、街中の辻々に建てられている「高〆」(たかじめ)の下に祇園車が止まり、踊り等の芸能が奉納されます。これは「辻踊り」(つじおどり)と呼ばれています。
古来、悪霊などは通りの辻や町と町の境界から侵入してくるものと考えられていました。中津祇園においては、人々はそのような場所に高〆を建て、御神幸で下界にお越しになった祇園の神様を一時的にお迎えし、悪霊退散していただこうという意味で、芸能を奉納し、
芸能の奉納が終ると、高〆の結界が解け、次の高〆に向けて祇園車の進行が可能となると考えられています。
芸能の種類
芸能の種類は、現在ではほとんどが舞踊ですが、貴重な芸能が伝承されている町もあります。下祇園の下正路町(しもしょうじまち)は、中津祇園の発祥となった町で、中津藩主からいただいた御座船(ござぶね)を載せている唯一の祇園車です。この町では、中津藩主の参勤交代の際に唄われていたという御船歌(おふなうた)が子どもたちによって歌い継がれています。
祇園車の原型となった下祇園の豊後町(ぶんごまち)は、祇園車に御神殿を載せており、影向楽(ようごうがく)とよばれる稚児舞(ちごまい)が伝承されています。
下祇園の龍王町では、松前音頭(まつまえおんど)とよばれる船の引き出し音頭が伝承されています。そのルーツは伊勢の木遣り(きやり)とも言われており、古老の「若い衆に頼む」の音頭の後に、若衆により勢いよく曳き出される祇園車の迫力は圧巻です。
威勢のよい遣り取り(やりとり)
祇園車が舵を切って威勢良く交差点を曲がることを「遣り取り」(やりとり・やりどり)と呼びます。自動車のようなハンドルの付いていない、数トンもある祇園車をすばやく、かつ円滑に動かす工夫の一つに船を操る言葉・合図が挙げられます。
その合図とは、「面舵」(おもかじ)「取舵」(とりかじ)「良候」(ヨーソロー)です。
「面舵」は右旋回、「取舵」は左旋回を意味し、「良候」は「舵を切る必要なし」ということを表しています。
祇園車の四方に付いて祇園車進行の司令塔となり、舵取りに指示を出す人たちのことを舳(みよし)・艫(とも)あるいは「台輪付き」(だいわつき)「車付き」(くるまつき)と呼ぶ町内もあります。
舳(みよし)と艫(とも)は船の部位を表す言葉で、舳は「水を押す→水押し→みよし」ということから船の先端を意味し、艫(とも)は船の後方を意味します。
中津祇園の起源が漁師の祭であることから、祇園車を船と見立てて、船を操る言葉が使われてきたと考えられます。
さらには、祇園車のルーツと考えられている「だんじり」は、川御座船(かわござぶね)が起源とされていることから、これらの合図は、和船の残響であるといった指摘もされているところです。
練り込みの始まり
中津祇園の特徴を表す言葉として「走る文化財」という表現が使われますが、正徳2年(1712)に、中津藩主の病気治癒を祈願して、祇園車を城内で走らせたのが現在の「練り込み」の原点と言われています。
下祇園ではスピードが魅力の「棒練り」(ぼうねり)、上祇園ではダイナミックな舵切りが魅力の「廻し練り」(まわしねり)が行われます。
「棒練り」は境内の直線コースをひたすら往復するだけではありますが、その見所はスピードだけでなく、折り返す時の綱の引き戻し方や、祇園車が止まらないように台輪(だいわ)の周囲に引き手が集まって押す等、様々な工夫を織り交ぜている点にも注目です。
一方、「廻し練り」の見所は、走りながら祇園車の方向を変える舵取りで、前を引っ張る綱と後ろの舵取りの呼吸を上手く合わせることがポイントです。
内容は2024年07月29日時点の情報のため、最新の情報とは異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。
ジモッシュ編集部
地元が嫌いとか好きとかじゃなく地元にしか興味がありません! 噂を聞きつければ現地に足を運び、文字通り「地元をダッシュ」して情報発信中。 思い立ったら即行動!普段から目を皿にして特ダネをさがしています。
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