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上祇園の祇園車・御神輿、由来/中津祇園

公開日:2024年07月24日

ライター:ジモッシュ編集部

上祇園の祇園車・御神輿、そして下祇園にまつわる由来などをご紹介します。

 

中津神社(なかつじんじゃ)の由来

 明治16年(1883年)3月31日に、新魚町の六所宮(素盞嗚命)、片端町の義氏社、御小屋(後藤又兵衛の屋敷跡)の稲荷社、諸町の蛭子社、萱津町の大江八幡神社(応神天皇・仁徳天皇・菟道稚郎子命)の御分霊を合祀し、中津城址の下段(松の御殿跡)に創建されました。

 合祀記録によれば、祭祀は素盞嗚命、応神天皇、仁徳天皇、他十三柱となっています。

 大正7年(1918年)4月無格社より村社に昇格、昭和3年(1928年)11月17日村社より郷社に昇格しました。

 現在の上祇園祭は中津神社に祭祀している全ての神の祭としての夏季大祭ですが、六所宮(新魚町)から素盞嗚命も合祀されているため、祭の本質は疫病退散を祈願する祇園祭であり、合祀と同時期に大江八幡神社(萱津町)から寄進された7台の祇園車と中津神社の御神輿が巡行しています。 

 なお、大江八幡神社における祇園社の祭礼は、明和5年(1768年)ごろに上六町が祇園囃子を奉納したのが始まりとされています。

※以下は令和6年度の御神幸順で掲載しています。

令和六年度 上祇園先車(はなぐるま) 京町(きょうまち)踊車

 明治24年(1891)の建造で、可倒式の祇園車です。

 大工棟梁は不明ですが、京町在住の造道氏の説があります。

 二代目の車で、初代の車は大分県玖珠町の森祇園に売却されました。

 正面の懸魚には鷲と猿の彫刻、浄瑠璃棚には龍と大鷲の彫刻、格天井には龍の彫刻が施されています。

 鬼板は、中津祇園唯一の「獅子噛」です。

 彫刻は大阪の兵庫屋により作成されました。

 台輪は「浮かし彫り」です。

 扁額は明治21年(1888)に、京町の古元氏より寄贈されました。

 大正12年(1923)に大改造を行い、平成3年(1991)に車上部を新築しました。

 このとき、目釘一本に至るまで、寸法を記録したそうです。

 この年は白木で参加し、翌平成4年に塗りが完成しました。

 また、平成19年(2007)には、新しい台輪を新調しました。

令和六年度 上祇園二番車 諸町(もろまち)踊車

 明治24年(1891)の建造です。

 三代目の車ですが、いくつかの部品は初代の車から受け継いでいます。

 可倒式の車で、町内在住の職人の手により建造されました。

 正面欄間は昇天玉龍、左右欄間は竹林と二虎の彫刻が施されています。

 特徴として中欄間があり、雲海の鶴があります。

 扁額は「諸町」と彫り込まれています。

 前後軒先彫刻は浮かし彫り五色で、浄瑠璃棚は「茂呂まち」と彫られています。

 格天井の花と蝶の文様は町内在住だった亀井氏の作品で、絵師は浜田氏、棟梁は村上氏、塩田氏と記録されています。

 二代目の車は、明治23年に大分県玖珠郡玖珠町森祇園の上町中町組に売却され、その後大正初期に北山田祇園へ売却されました。

 また、先代の車は、福岡県豊前市八屋祇園の八幡町へ売却されたとの説もあります。

令和六年度 上祇園三番車 新博多町(しんはかたまち)踊車

 昭和5年(1930)の総町内会で新造を決議し、4,823円80銭(当時の新築家屋5軒分)で建造され、昭和6年に白木にて完成しました。

 大工棟梁は堀川町の豊浦氏と栄町の円入氏、絵彫刻師は豊前市三毛門の楠本雲秀才の記録が残っています。

 昭和7年に塗りが完成しました。

 平成26年(2014)に全面塗り替えを行いました。

 二階は、京都祇園の影響を最も受けた切妻式で、破風には金箔を使用し、丸みを持たせているのが特徴です。

 車の重心は、他の車に比べて中央部分に集中しています。

 三方欄干には龍、格天井には鳩、軒先には鳳凰の彫刻が施されています。戦後、踊り舞台が引き出し方式から固定式にされています。

 現在の車は三台目ですが、二代目の車は大分県玖珠郡の塚脇祇園に300円で売却されました。

 現在の車が堀川町にて完成したとき、一番橋でもちまきを行って祝福をしたあと、堀川町の青年がたちが、新博多町まで引っ張っていったという話もあります。

 近年、戻車の御巡行で「北原人形芝居」が演じられた箇所もあり、かつての「人形車」の姿を見る機会もありました。

令和六年度 上祇園四番車 殿町(とのまち)踊車

 大正10年(1921)より5年間の歳月をかけて建造され、平成11年に総漆にて建造当時の姿へ復元されました。

 総けやき造りの車で、正面欄間には龍の彫刻、両側には虎、竹、獅子の彫刻が施されています。

 また、前柱上部には獅子と象の彫刻が施されています。

 浄瑠璃棚は「牛図彫刻衝立」で、牛に乗った天神の図は楠本雲秀斎氏の秀作と言われています。

 また、腰板は鶴の透かし彫りとなっています。

 建造の記録として、大工は村上辰治郎氏、田中乾造氏ほか6名、絵彫刻師は豊前市三毛門の楠本雲秀斎氏、塗師は増田利夫氏となっています。

 初代の車は福岡県豊前市八屋祇園の前川区へ売却され、近年まで活躍していたそうです。

令和六年度 上祇園五番車 片端町(かたはまち)踊車

 二代目の車で、明治28年(1895)に建造されました。大工棟梁は佐甲光造氏、塗師は増田利夫氏です。

 増田氏は、小祝光専寺の彩色のため京都より来津し、そのまま片端町に永住しました。

 そのため、片端町の祇園車は「仏壇づくり」とも言われ、大量の装飾金具が用いられています。

 破風は、他町の祇園車は「べた金」であるのに対し、片端町の祇園車は「黒」で特徴づけられています。

 腰板は麒麟の透かし彫りで、前部懸魚と後部軒下には鶴の彫刻が施されています。

 殿町の祇園車と兄弟車で、昭和3年(1928)に二階車へ改造されました。

 昭和62年(1987)に全面塗り替えおよび大修理が行われています。

 初代の車は、福岡県豊前市八屋祇園の下町区に売却されました。

令和六年度 上祇園六番車 古魚町(ふるうおまち)踊車

 大正10年(1921)に滋賀県長浜市の曳き山を参考に建造されました。

 長浜は当時の世話人であった、原田助市氏と荒田磯吉氏の出身地です。

 「大工棟梁 諌山伊三郎(西蛎瀬) 矢野又次郎 塗師 増田利夫(片端町) 彫刻絵師 玖渓」の記録が確認されています。

 二階は「入母屋葺式造り」と言われ、正面屋根上には鯱をのせています。

 正面懸魚には鳳凰、欄間には龍と獅子の彫刻が施されています。

 欄間は金の龍で、町内では宝物と呼ばれているそうです。

 初代の車は、福岡県豊前市宇島祇園の魚町に売却され、現役活躍中です。

令和六年度 上祇園七番車 古博多町(ふるはかたまち)踊車

 明治28年(1895)に建造されました。

 大工棟梁は中津の名匠と言われ、「蓬莱館」などを建築した賀来政市氏です。

 上八町の車の中で最もバランスの良い車だと言われています。

 総けやき作りで、台輪の彫りは諸町と同様です。

 格天井には鶴が描かれています。

 初代の車は、豊後町の車にたいへんよく似ていたそうです。

 二代目の車は、大分県宇佐市長洲に売却されました。

中津神社御神輿 (新魚町(しんうおまち))

 現在、新魚町は中津神社の御輿を担いでいますが、戦前までは祇園車が出されていました。

 昭和5年ごろに大分県宇佐市四日市に売却され、新造計画が何度かなされたようですが、戦争の混乱のため、やむなく中止されました。

 売却された車は、宇佐市四日市の桜岡八幡宮の天神祭にて、「新町」の山車として曳行されています。

 扁額には、桜岡八幡宮の御神紋が取り付けられて「新町」となっていますが、この下にはおそらく「魚」の文字が残っているのではないかと推測されます。

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▼下祇園の祇園車・御神輿、由来について

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内容は2024年07月24日時点の情報のため、最新の情報とは異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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