明治28年(1895)に建造されました。
大工棟梁は中津の名匠と言われ、「蓬莱館」などを建築した賀来政市氏です。
上八町の車の中で最もバランスの良い車だと言われています。
総けやき作りで、台輪の彫りは諸町と同様です。
格天井には鶴が描かれています。
初代の車は、豊後町の車にたいへんよく似ていたそうです。
二代目の車は、大分県宇佐市長洲に売却されました。
中津市・宇佐市・豊後高田市・豊前市・吉富町・上毛町エリアをダッシュする
上祇園の祇園車・御神輿、そして下祇園にまつわる由来などをご紹介します。
明治16年(1883年)3月31日に、新魚町の六所宮(素盞嗚命)、片端町の義氏社、御小屋(後藤又兵衛の屋敷跡)の稲荷社、諸町の蛭子社、萱津町の大江八幡神社(応神天皇・仁徳天皇・菟道稚郎子命)の御分霊を合祀し、中津城址の下段(松の御殿跡)に創建されました。
合祀記録によれば、祭祀は素盞嗚命、応神天皇、仁徳天皇、他十三柱となっています。
大正7年(1918年)4月無格社より村社に昇格、昭和3年(1928年)11月17日村社より郷社に昇格しました。
なお、大江八幡神社における祇園社の祭礼は、明和5年(1768年)ごろに上六町が祇園囃子を奉納したのが始まりとされています。
明治24年(1891)の建造で、可倒式の祇園車です。
大工棟梁は不明ですが、京町在住の造道氏の説があります。
二代目の車で、初代の車は大分県玖珠町の森祇園に売却されました。
正面の懸魚には鷲と猿の彫刻、浄瑠璃棚には龍と大鷲の彫刻、格天井には龍の彫刻が施されています。
鬼板は、中津祇園唯一の「獅子噛」です。
彫刻は大阪の兵庫屋により作成されました。
台輪は「浮かし彫り」です。
扁額は明治21年(1888)に、京町の古元氏より寄贈されました。
大正12年(1923)に大改造を行い、平成3年(1991)に車上部を新築しました。
このとき、目釘一本に至るまで、寸法を記録したそうです。
この年は白木で参加し、翌平成4年に塗りが完成しました。
また、平成19年(2007)には、新しい台輪を新調しました。
明治24年(1891)の建造です。
三代目の車ですが、いくつかの部品は初代の車から受け継いでいます。
可倒式の車で、町内在住の職人の手により建造されました。
正面欄間は昇天玉龍、左右欄間は竹林と二虎の彫刻が施されています。
特徴として中欄間があり、雲海の鶴があります。
扁額は「諸町」と彫り込まれています。
前後軒先彫刻は浮かし彫り五色で、浄瑠璃棚は「茂呂まち」と彫られています。
格天井の花と蝶の文様は町内在住だった亀井氏の作品で、絵師は浜田氏、棟梁は村上氏、塩田氏と記録されています。
二代目の車は、明治23年に大分県玖珠郡玖珠町森祇園の上町中町組に売却され、その後大正初期に北山田祇園へ売却されました。
また、先代の車は、福岡県豊前市八屋祇園の八幡町へ売却されたとの説もあります。
昭和5年(1930)の総町内会で新造を決議し、4,823円80銭(当時の新築家屋5軒分)で建造され、昭和6年に白木にて完成しました。
大工棟梁は堀川町の豊浦氏と栄町の円入氏、絵彫刻師は豊前市三毛門の楠本雲秀才の記録が残っています。
昭和7年に塗りが完成しました。
平成26年(2014)に全面塗り替えを行いました。
二階は、京都祇園の影響を最も受けた切妻式で、破風には金箔を使用し、丸みを持たせているのが特徴です。
車の重心は、他の車に比べて中央部分に集中しています。
三方欄干には龍、格天井には鳩、軒先には鳳凰の彫刻が施されています。戦後、踊り舞台が引き出し方式から固定式にされています。
現在の車は三台目ですが、二代目の車は大分県玖珠郡の塚脇祇園に300円で売却されました。
現在の車が堀川町にて完成したとき、一番橋でもちまきを行って祝福をしたあと、堀川町の青年がたちが、新博多町まで引っ張っていったという話もあります。
近年、戻車の御巡行で「北原人形芝居」が演じられた箇所もあり、かつての「人形車」の姿を見る機会もありました。
大正10年(1921)より5年間の歳月をかけて建造され、平成11年に総漆にて建造当時の姿へ復元されました。
総けやき造りの車で、正面欄間には龍の彫刻、両側には虎、竹、獅子の彫刻が施されています。
また、前柱上部には獅子と象の彫刻が施されています。
浄瑠璃棚は「牛図彫刻衝立」で、牛に乗った天神の図は楠本雲秀斎氏の秀作と言われています。
また、腰板は鶴の透かし彫りとなっています。
建造の記録として、大工は村上辰治郎氏、田中乾造氏ほか6名、絵彫刻師は豊前市三毛門の楠本雲秀斎氏、塗師は増田利夫氏となっています。
初代の車は福岡県豊前市八屋祇園の前川区へ売却され、近年まで活躍していたそうです。
二代目の車で、明治28年(1895)に建造されました。大工棟梁は佐甲光造氏、塗師は増田利夫氏です。
増田氏は、小祝光専寺の彩色のため京都より来津し、そのまま片端町に永住しました。
そのため、片端町の祇園車は「仏壇づくり」とも言われ、大量の装飾金具が用いられています。
破風は、他町の祇園車は「べた金」であるのに対し、片端町の祇園車は「黒」で特徴づけられています。
腰板は麒麟の透かし彫りで、前部懸魚と後部軒下には鶴の彫刻が施されています。
殿町の祇園車と兄弟車で、昭和3年(1928)に二階車へ改造されました。
昭和62年(1987)に全面塗り替えおよび大修理が行われています。
初代の車は、福岡県豊前市八屋祇園の下町区に売却されました。
大正10年(1921)に滋賀県長浜市の曳き山を参考に建造されました。
長浜は当時の世話人であった、原田助市氏と荒田磯吉氏の出身地です。
「大工棟梁 諌山伊三郎(西蛎瀬) 矢野又次郎 塗師 増田利夫(片端町) 彫刻絵師 玖渓」の記録が確認されています。
二階は「入母屋葺式造り」と言われ、正面屋根上には鯱をのせています。
正面懸魚には鳳凰、欄間には龍と獅子の彫刻が施されています。
欄間は金の龍で、町内では宝物と呼ばれているそうです。
初代の車は、福岡県豊前市宇島祇園の魚町に売却され、現役活躍中です。
明治28年(1895)に建造されました。
大工棟梁は中津の名匠と言われ、「蓬莱館」などを建築した賀来政市氏です。
上八町の車の中で最もバランスの良い車だと言われています。
総けやき作りで、台輪の彫りは諸町と同様です。
格天井には鶴が描かれています。
初代の車は、豊後町の車にたいへんよく似ていたそうです。
二代目の車は、大分県宇佐市長洲に売却されました。
現在、新魚町は中津神社の御輿を担いでいますが、戦前までは祇園車が出されていました。
昭和5年ごろに大分県宇佐市四日市に売却され、新造計画が何度かなされたようですが、戦争の混乱のため、やむなく中止されました。
売却された車は、宇佐市四日市の桜岡八幡宮の天神祭にて、「新町」の山車として曳行されています。
扁額には、桜岡八幡宮の御神紋が取り付けられて「新町」となっていますが、この下にはおそらく「魚」の文字が残っているのではないかと推測されます。
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内容は2024年07月24日時点の情報のため、最新の情報とは異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。
ジモッシュ編集部
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